第百二十四季 葉月の三 |
第一百二十四季 葉月[1]之三 |
夏の夜の妖怪法会 |
夏夜的妖怪法會[2] |
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誰もが涼しくなれる? |
無論是誰都能感覺涼爽? |
命蓮寺で行われた法会が話題となっている。 |
在命蓮寺舉行的法會最近人氣很是高。 |
命蓮寺は今年の春に出来たばっかのお寺であるが、そこで初めて行われている法会がスリリングでエキサイティングらしい。 |
命蓮寺是今年春天[3]新建的寺廟,其第一次法會據說便充滿刺激感跟恐懼感。 |
そもそも法会とは何なのだろうか。法会とは仏の道を説く為に開かれる勉強会である。いかにもつまらなさそうであるが、それがスリリングでエキサイティングとはどういう事か? 住職の聖白蓮さんはこう語る。 |
說起來法會到底是什麼吶。法會是為了宣傳佛教舉辦的學習會。雖然聽著就感覺很無聊,但這又怎麼充滿刺激感跟恐懼了吶?住持的聖白蓮女士這麼說道。 |
「仏の道とは、悟りに至るまでの修行の事を指します。それは人間の心の中から魔を追い払う事に繋がります。ですが、うちの法会は妖怪を対象に行っているのですから……」 |
「所謂佛道,指到達開悟的境界的修行過程。這跟從人類心中趕走魔物有很大關聯,但我們寺廟的法會的對象是妖怪所以……」 |
人間の心に潜む魔が妖怪の一側面だとしたら、法会に参加する事自体が自分の存在を否定する事になりかねない、という事かも知れない。なる程、それはスリリングである。 |
如果說人類心中潛伏的魔物是妖怪的一側面的話,參加法會這件事本身基本就等同於在否定自身的存在。原來如此,確實很恐怖吶。 |
しかし、聖さんはこう続ける。 |
但是,聖女士這麼繼續說道。 |
「悟りの境地は、色即是空空即是色、即ち何物にも捕らわれない心から自発的に生まれてくる物だと言われています。自己の否定が存在の否定に直結する妖怪こそ、悟りに近いのかも知れません。」 |
「所謂開悟的境界被認作為色即是空空即是色,是從不被任何東西干涉的心自發的誕生的。或許否定自己便與否定自身的存在有著直接關聯的妖怪,才更接近開悟吶」 |
命蓮寺には妖怪からの問い合わせが絶えない。何故、妖怪達は望んで法会に参加するのだろうか。参加している妖怪に訊ねてみた。 |
來命蓮寺的妖怪很是多。那麼為什麼妖怪們卻仍積極的參加法會吶。我有採訪參加法會的妖怪。 |
「最近暑いからねー。法会っていう怪談大会が行われるって言うから参加してみたんだけど、いやー、あの坊さん凄いね。話が上手くて本当に怖い、身も心も震え上がっちゃうよ。般若心経っていうの? 傑作の怪談だね」 |
「最近太熱了—。聽說有在舉行叫法會的怪談大會所以就參加了看看,呀——,那個和尚真厲害啊。她太會講故事了,故事也真的相當的嚇人吶,我身心都震住了。叫般若心經來著?那可真是怪談的傑作吶」 |
般若心経は仏教の経典の中で最も有名な物で、他にも沢山ある。その事を伝えると「良いねぇ、仏教ってのは。怖い物好きには堪らないね」と身を震わせて喜んでいた。 |
般若心經是佛教的教典里最有名的東西,其他也有很多類似的。我把這件事告訴了她後,她顫抖著歡喜道「佛教真是太棒了。對喜愛恐怖的東西的我來講真是太贊了吶」。 |